2017年11月19日日曜日

健康であることの有り難さ

仕事から戻ると汚れ物と洗剤を洗濯機に放り込んでスタートボタンを押した、洗い上がりまでは45分ほどかかる、その間に晩メシの用意でもしておこうとしたが野菜が足りないので買い物に出掛けた。

たっぷりの小松菜を薄揚げと煮浸しにしよう、多めにブロッコリーも茹でようか、そんなことを考えながら店の入口を入ったところには少しずつ歩く杖をついた男性がいた、右半身が不自由なのだ。

私はその人を相当昔から知っている、会話をしたことなどはない、最初目にしていた頃はいつも仕事帰りのようで原付バイクでやって来ていた、袖や裾が機械油のような汚れのある作業着姿で、がっしりとした太い体と力強い大股の歩き方が印象的だったのでよく覚えている。

ところがある時期からぱったりと見掛けなくなった、てっきり買い物は別の店にで済ませているのだろうと思うことはあったが、すっかり忘れていた頃に、ふと、いつもの店の中で杖をついて立っているところに出くわしたのだった、見掛けなくなってから4年は経っていたと思う、ちょこちょこと杖と足とでゆっくりと体の向きを変えて靴の長さほどの歩幅でレジに向かっているのだ、私は少なからずショックを受けた。

あんなに分厚くて力強く元気そうな人に何が起きたのかは分からない、事故か病気か、いずれにせよ以前とは全く違う生活環境の中にいるのだけははっきりしている。

それからというもの、私が買い物に出掛ける時間帯で見掛けるのは半年に一度あるかないかという程度、そしてその日が今日だった、見掛ける度に痩せていくのは体を使わなくなったせいで筋肉が落ちているからであろう、私とほぼ同年代であろうその人には加齢の影響も大きいのだと思う。

そう、今日のその人は老人そのものだった、健康だった頃の様子を知っている人がいて、10年ぶりにでも今日見たとすれば同一人物だと気が付く人はどれくらいいるだろう。

健康を損なってしまったよその人の姿を見て己の健康の有り難さを実感するなどとは大っぴらには口にできないことではあるが、正直な気持ちとして健康である今の有り難さを痛感するのだ、普段はそんなこと全く意識していないのに、健康であることはどういうことなのかということを思い知らされる現実を目の当たりにするとハッとする。

奇しくも知人や友人の中には健康上に何かしらの不具合を抱えている人がたくさんいる、それほど心配のないものから万が一のことを想定しておいたほうがいいというものまでいろいろだ、それでも一応でも健康なレベルを維持できるか回復できるのならまだ間に合う、それは幸せなことだと思う。

意図的に痩せないデブ専だけではなく(2015年11月9日のブログ)、時間がなかったり、うっかり薬の飲み忘れなどでついつい治療をサボってしまうことの危うさはどうにかならぬものかと考えてしまう。

私には長く元気でいて欲しいなと強く思う人はたくさんいる、本当にそうあって欲しいのだ。