2017年12月28日木曜日

すっきりしない空の下を時々話をする初老の男性が歩いていた、その人はタクシーの運転手で、西鉄電車で天神まで来ては歩いて職場へと向かうのだった、顔を合わせるのは決まって私がゴミ置き場の掃除をしている時で、最初に声を掛けられた時は今日のように風の冷たい冬だった、「うわぁ! 半袖で寒いだろう!」とデッキブラシで泡だらけにした床を磨く私にそう言ったのが数年前のことだった。

そのタクシー運転手の姿を目にしたのはさらに前からで、しばらく見掛けないなと思っていると復活し再びすぐ目の前の通りを歩いていたりするのだ、話すようになってから見掛けない時期とよく見掛ける時期の違いを訊いてみたところタクシー会社を辞めた時が見掛けない時期で、同じタクシー会社に出戻ってきた時が見掛ける時期なのだと教えてくれた、ちなみにその運転手は同じタクシー会社を2度辞めて2度出戻っている、今度辞めれば3度目となるのだ。

だが、その3度目は決してないと本人が言う、今はがむしゃらに働いて少しでも稼いでおきたいのでしがみついても辞めないと正直に明かしてくれた。

少し痩せたようなので仕事がハードなのだろうと言えば末期の前立腺ガンだからだろうと笑って言うではないか。

「末期の?」 私はそう訊き返した。

ガンだと知ったのは一体何時のことなのかと訊けば2年ほど前だと言った、既にかなり進行していて転移もあるらしく治療はホルモン療法しか選択肢がなかったらしい。

そんな体で連日のように乗務をこなして大丈夫なのかと訊けば先週の検診で余命半年だと宣告されたから仕方がないと大笑いをするのだった、大きな口を開けて笑っている顔はやはり悲しさが滲んでいる、彼は笑っていたのではない、泣いたのだ。

言葉を失って顔をみつめるだけの私に「ほら、これ」と斜め上の桜の木を指さして、「来年は見れるかもしれないけど、再来年は無理だってこと言うんだよ(医者が)、どう思う?」とまたもや笑うのだ、そして、「孫に何か買って残してあげないとね、だからね、仕事しなきゃ」と軽く手を挙げて自分のタクシー会社のある方へと歩いて行った。

私がその運転手と同い年で、同じような体の具合だったらどうするだろう、孫や誰かの為に何かを残したくて仕事に励んでいるだろうか、いや、たぶん自己憐憫に浸って哀れな姿を晒すだけかもしれない、本当は悲しくて堪らないだろうに、それを抑えこんで目的に向かって残りを生きていようとする姿は私にはとてつもない事に思えて怖いくらいだった。

桜か、どこの誰が下から見上げていようと季節が巡るごとに花は咲くだろう、私が見ていようと、運転手が見ていようと一切関わりなく咲いて満開となり散っていく、いずれは見上げる皆の中から私も消えるが、それでも桜は春に咲く。

私はあと何回桜の花を愛でて春の到来を喜べるのだろう、残りの回数よりも見てきた回数のほうがとうに倍ほどに上回っている、残された時間はいよいよ貴重なものとなった、無駄にはしたくないなと思う。